【劇評①】第14回せんがわ劇場演劇コンクール グランプリ・オーディエンス賞受賞公演 バストリオ『セザンヌによろしく!』
6月27日、今日のパレスチナの天気は晴れ
第14回せんがわ劇場演劇コンクール グランプリ・オーディエンス賞受賞公演
バストリオ『セザンヌによろしく!』
丘田ミイ子

―好きな人の背中に耳を澄ませてその人の声を山彦を待つように聞くとき、眠っている子どものお腹に耳を澄ませてこの子の息を潮騒を待つように聞くとき、わたしはうれしくて涙が出そうになる。ここにあなたが生きていると思う。わたしが生きていると思う。
6月にせんがわ劇場で上演されたバストリオの『セザンヌによろしく!』(作・演出:今野裕一郎)は、その名の通り、フランスの画家のポール・セザンヌと、セザンヌがその生涯をかけて描き続けたサント=ヴィクトワール山 をモチーフに据えた演劇であった。
2022年に兵庫県・豊岡市の神鍋山で初演、その後、北海道・知床の斜里岳でも上演され、昨年の第14回せんがわ劇場演劇コンクール でグランプリとオーディエンス賞を受賞。そして、今回の再演ではそこからさらにいくつかのシーンが加えられ、新たに上演された。
開演前から舞台周辺はすでに賑わい、下手側面にいくつかの洋服がかけられ、その横にドローイングスペース、上手にはドラムセットがあった。舞台上に最初に現れたのも、ドラマーの松本一哉だった。「10年以上愛用していたスティックが折れた」という話を始める松本だが、これは前説ではない。山は木の集まりであり、スティックはその木から作られているのだから、それはかつての山の一部とも考えられる。山の一部から溢れてくるその音はとても激しくて、そして、何か大切なことが始まる前の合図みたいで胸がざわざわした。ドラムの短い演奏が連なり、松本が「10年以上使ったスティックをとっておこうと思ったのは初めてでした」と言うと同時に、本藤美咲が奏でるサックスの音色が重なる。船の汽笛のようにも生き物の鳴き声のようにも聞こえるその音と一緒に舞台中央の幕が開く。そこで初めて舞台上の風景が明らかになる。プロジェクター、脚立、ランプ、ブルーシート、水の張られた水槽…他にもいろんなものが点在したその舞台上はセザンヌが幾度も登ったサント=ヴィクトワール山 であり、すぐそばの誰かが生きている部屋であり、遠くはなれた誰かが生きている世界そのものであった。こう書き切っていいものか僅かに不安は残るものの、この演劇には、“言葉”こそ溢れているものの、“台詞”は一つもなかった。厳密に言うと、「俳優が台詞を喋っている」と思う瞬間が一度もなかった。私にはそう感じられた。そして、そのことがとても重要なことに思えた。

「あなたのところまでわたしが会いに行くとしたら」
そう最初に叫ばれてから、断片的な言葉が次々と投げかけられていく。坂藤加菜、中條玲、橋本和加子ら俳優たちのその声はどれもがとても大きい。客席に向かって、というよりもむしろ山に向かって、いや、山から世界に向かって、つまるところ、“わたしのところ”から、“あなたのところ”に向かって放たれているようで、言葉と身体のエネルギーで劇場が満たされていく度に、わたしもまた遠くはなれた“あなた”を思わずにはいられなかった。
セザンヌが来る日も来る日も山の絵を描き続けたように、舞台でもまた何枚もの絵が描かれていた。黒木麻衣の描くそれらは山のように見え、海のようにも見えた。いつしか人間の身体の線にも見えた。やがて心電図にも、子どもを産むときに記された陣痛の波形を記録する紙にも見えた。そうして、人の身体の中にも見えた。見たことないのにそう思った。命だった。気づいたら、真っ赤な命の絵がそこにあった。その間もずっと俳優は大きな声で叫んでいたし、声こそ出ていないけれど、絵もまた叫んでいるのだと思った。
「私の友人でした」
「私の恋人でした」
「私の家族でした」
「私と暮らす生き物でした」
「私の味方でした」
「私の敵でした」
「私の知らない人でした」
「私は知っていました」
「私の心臓はここにあります」

いくつもの絵が描かれていることと並行して、舞台上もどんどん散らかっていく。水が溢れる。土が舞う。そうして散らかっていく度に、心に浮かび上がってくる風景はなぜだか鮮明になっていく。散らかったところから何かを探し出す必要があること、今流れるこの涙が水であること、叫ばれるその声が振動であること、今いるこの床の下に土があること、海や山、水平線や稜線がこの身体にもあること、あなたとわたしがここやそこで生きていること…。その時、私は次から次へと流れる涙とともにはっきり確信をした。この演劇が描いているのは命で、音楽は鼓動で、絵画は呼吸であるということに。そして、言葉が祈りであるということ、できるだけ遠くに届けなければならない祈りであるということに。だから、俳優は最後の最後までその身を絞り出すような大きな声で叫んでいた。
「関係あるやろ。この地上にあるものはみんな関係あるやろ」
「相手見えへんくても歌うねん。顔もしらん誰かのために歌えるなんてすごいやろ」
バストリオの演劇はいつも痛いほどにそのことを私に伝える。
「演劇がここまで自由になれる」ということを通して、「人はどこまでも解放されていいはずなのだ」ということを知るとともに、世界で起きていることとの間にはあまりに大きな川があって、海があって、山があって、どうしても遠くて。だからこの演劇は、この俳優たちはこんなにも大きな声でずっと、ずっと叫んでいる。すぐそばの顔の見える私たち観客だけでなく、劇場を飛び出して、せんがわを過ぎて、いくつもの海と山を越えて、もっともっと遠くの顔の知らない誰かへと大きな声で叫ぶ必要のある言葉を、祈りを叫んでいる。端的にそうは言ってはいないけれど、この演劇は一貫して戦争に、殺戮に、それによって失われる、失われそうな、失われた命に向かって叫んでいた。確かに「NO」と叫んでいた。私にはそう聞こえた。いくつもの心を、というより心臓を捉えてはなさない言葉たちの中に、「海は山やし、山は海や」という言葉があった。それは「あなたはわたしやし、わたしはあなたたや」という叫びとして私に届いた。

同じ山で毎日違う絵を描くことは、同じ劇場で毎日違う演劇を作ることと似ている。同じ場所でも同じものは一つもない。その一回制はやがてここにいるわたしの、そして、遠くはなれたところにいるあなたの、一つきりの、一度きりの命に繋がっていく。使い捨てられていいはずのない、どれもが尊い命に向かっていく。
「この星に私もいた。あなたもいた」
「今日のパレスチナの天気は」
「シリアの天気は」
「ウクライナの天気は」
「アフガニスタンの天気は」
「ミャンマーの天気は」
「今日のせんがわの天気は」
そう叫ばれた後、俳優は自らの名前を口にし、最後に舞台中央にパレスチナの国旗が翻った。
上演はそこで終わったけれど、演劇は何も終わってなかった。終わらせていなかった。続いてきて、そして、続いていくのだと思った。

―好きな人の背中に耳を澄ませてその人の声を山彦を待つように聞くとき、眠っている子どものお腹に耳を澄ませてこの子の息を潮騒を待つように聞くとき、わたしは時々昼間に見たいくつかの写真や映像を思い出して、涙が出そうになる。私が愛するこの人と、爆撃を受けてその背中も声もバラバラになってしまったその人とは一体何が違うのだろう。私が産んだこの子と、柔らかなお腹が割れ血に塗れたその子は一体何が違うのだろう。あなたのところまで会いに行けないわたしは、「あの中に私の赤ちゃんはいない」という事実と「あの赤ちゃんは私の赤ちゃんと何も変わらない」という事実をひたすらに思う。思って、その時は祈って、それでも私はその鼓動や呼吸に滑り込む。あなたが生きていると思う。わたしが生きていると思う。6月27日、今日のパレスチナの天気は晴れ、ガザの最高温度は31度、雨は降らない。シリアの天気は晴れ、ウクライナの天気は西部が雨、首都キーウは晴れのち曇り、アフガニスタンの天気は晴れ、ミャンマーの天気は雨、せんがわの天気は晴れ時々曇り。
この星に私もいる。あなたもいる。
(2025.7.11公開)
丘田ミイ子(文筆家)
1987年生まれ。2011年より『Zipper』『nina’s』『リンネル』などのファッション誌で主にカルチャーページを担当した後、2014年より演劇の取材執筆活動を本格始動。寄稿媒体は『演劇最強論-ing』『ローチケ演劇宣言!』『演劇批評誌 紙背』『NiEW』等。他の掲載作に『母と雀』(文芸思潮エッセイ賞優秀賞受賞作)、『誰が為のわがままBODY?』(『USO vol.6』)、『人に非ず優しい夫、いい夫婦でない私たち』(note)他。『週刊ヤングジャンプ』にて「ゲキドウpresentsヤンジャン演劇広報部」を隔週連載中。CoRich舞台芸術!まつりや東京学生演劇祭の審査員も務める。