【劇評】第13回せんがわ劇場演劇コンクール オーディエンス賞受賞公演 終のすみか『Deep in the woods』
第13回せんがわ劇場演劇コンクール オーディエンス賞受賞公演
終のすみか『Deep in the woods』劇評
丘田ミイ子
本題に入る前に、何より先にこのことを記しておきたい。
今から私は本劇評の執筆を「自死」について言及しながら進める。自分の身の周りで起きたこと、本作の観劇を通じて感じたこと、いずれを語るにしても、どうしても「自死」というものが付随する。少しでも心の負担を感じる人は、どうかその瞬間から本劇評を読むのをやめてほしい。この劇評よりも、あなたの心が健やかであること、そして、あなたが存在していることの方がこの世界においてはずっと大切なこと。ずっとずっと必要なことだ。私は強くそう思っている。そして、それは本作の登場人物たちへの私の思いでもある。
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数ヶ月前、従兄弟が遺体の第一発見者となった。従兄弟は野生の鹿の生態と森林に関する研究をしていて、その一環で多くの時間を森で過ごしている。状況や様相から自死の線で警察による捜査が進められ、まもなく身元がわかった。その人は、その森からは県をいくつも跨いだ、奇しくも私と同じ地元に住んでいた人だった。
終のすみか『Deep in the woods』(作・演出:坂本奈央)は、東京を離れ、地方の林間部へと移住した旧友のもとを同級生の男女二人が訪ねるところから始まる。祖父の別荘のあるこの森に一人で住んでいるのは、フリーランスのアニメーション作家と思しきシノダ(武田知久)だ。その幼稚園時代からの友人であるサトウ(高橋あずさ)とアオキ(串尾一輝)はともに既婚者で、アオキには2歳の子どもがいる。
シノダの移住からは1年だが、3人が再会するのは4、5年ぶり。二人はここまでサトウの夫の車に乗ってやってきたのだが、その車が到着してすぐに故障。ドライブを楽しみにしていた2人だったが、シノダの車も故障中であったことからやむをえず家の中で過ごすことになる。シノダは綺麗好きのミニマリストなのだろうか。舞台となるその部屋は驚くほど綺麗に整えられており、無駄なものが一切ない。まるで、「家」ではなく「別荘」という形式を崩さずにいるように感じられるほどに。
コーヒーを飲み、食事をし、酒を飲み交わしているうちに夜も深まり、その間にサトウは夫と喧嘩をしてそのまま飛び出してきたこと、今日がアオキの娘の誕生日で妻の実家でお祝いの会が開かれていることなどが明かされる。そんな愚痴も挟み挟み、盛り上がった3人は大学時代に取り組んだ卒業制作の映像を見ようとするが、アオキの粗相によってプロジェクターが壊れてしまう。懐かしの映像は見られなかったものの、そのまま明け透けに懐かしい夜は明けてゆく。
そして、翌日の昼頃、あと数時間で二人が帰るとなった頃に、息も切れ切れ、会話の応答もままならないシノダの異変に二人は気づく。そこでシノダが心を病んでいることをようやく、はっきりと悟るのである。病院に行っていること、薬を内服していることを確認し、「大丈夫?」と数回尋ねた後にサトウが「何かできることある?」と質問を変える。シノダは二人に「また来てくれる?」とたずね、二人は「もちろん」と力強く応える。そこに車の修理業者がやってきて、照明とともに物語は森の中へと、日々の中へと溶暗していく。
本作の観劇を通して、「果たして人は他者の心の異変にどこまで気づくことができるのか」といった命題を問われたように感じた人は多かったかもしれない。実際にアフタートークでもそういったことに話が及んだり、私自身も静かな会話劇にしのばされた違和を今一度確かめながら、「自分だったらどこで気づくだろう?」と振り返ったりもした。
その一方で、私にはこの劇にもう一つの別の風景が浮かんで仕方ないのでもあった。
それは、シノダはこの森に移住した時からすでに自死を決意していて、着々とその準備を進めていたのではないかということだった。そうして1年の間、「死にたい」と「死ねない」の狭間を彷徨い、この半年で限りなく「死にたい」に寄ってきていたのではないか。交通の便が悪く、車がなければ生活のままならない土地に住みながら壊れた車を半年以上も放置していること。高価な家具が壊れても、少しの動揺も見せないこと。家が隅々まで整理されすぎていること。それらはある種の身辺整理のようなものなのかもしれない。
生活感を感じさせないこの部屋は、綺麗好きのミニマリストによって仕立てられた洗練の空間ではなく、瀬戸際を生きている人間によっていつ死んでもいいように準備された部屋なのではないだろうか。まさか劇団名をここで使うことになろうとは思わなかったけれど、それはつまり彼にとって、意図をもって築かれた「終のすみか」であったのかもしれない。そうして、「死にたい」と「死ねない」の狭間で、答えの出ないその沈黙の中で、そのすみかに突然懐かしい来訪者がやってきた。彼は突然の喧騒に戸惑っただろう。その心もまたざわついただろう。
だけど、数時間をともに過ごす中で彼は自分の人生を振り返る。子ども時分の写真を眺め、楽しかった時間や手触りある思い出を辿る中で、力なく笑ったシノダのその横顔を何度も、何度も思い出す。あの時、「死にたい」は「死ねない」にまた少し傾いていたのかもしれない。死にたいのに死ねない人の、想像を絶する苦しみを思うと、それが手放しにいいことなのかは正直分からない。だけど、それでも、彼がそんな苦しみを抱えていることを、その片鱗を知る他者が現れたことはやっぱり一つの救いであるように思えた。同時に、そう願いたい自分自身のエゴを痛感するにも十分なシーンであった。
そしてもう一つ、私の心に思い浮かんだことは、果たして死にたかったのはシノダだけだったのだろうかということだった。森に移住こそしていないものの、二人もまたそれぞれの生活に問題を抱えていた。サトウは夫の不倫の末、離婚を決めていたし、アオキは自身の子どもの生誕を祝う誕生日会に妻の親族から除け者にされていたのだ。それらは、軽々と語るには憚られる、いずれも至極痛切な問題であるように私には感じられた。つまり、「死にたい」という感情の起因になっても何ら不自然ではないくらいの孤独、尊厳の喪失。意識的か無意識的かは分からないけれど、そういったものを二人も背負い、抱えているように見えた。
たとえ、そんな風にはまるで見えないくらい極めて明るく、つとめてお調子者のようにそれぞれが振る舞っていたとしても、二人が必ずしも「死にたい」と思っていないなんて、私にはどうしても思えない。思ってはいけないように感じてしまうのであった。シノダの車だけでなく、二人が乗ってきた車もまたこの家に着くや否や壊れてしまったこと。三人が共有しようと思った在りし日の映像がプロジェクターの故障により見られなかったこと。私にはそれらの描写すらも示唆のように、少しずつ欠けたり、動かなくなっていく三人の心、その心象風景であるように思えて仕方なかった。
都会から一時的に離れてこの森にやって来たこと、もう何年も会っていないシノダにそこで会おうとしたこと、それはともすれば、二人が自身に向けて発したS O Sでもあったのかもしれない。そう思った時、シノダは必ずしも手を差し伸べられる側の人間ではない。シノダもまたその存在によって誰かに手を差し伸べていることになるのではないだろうか。たとえ、彼が「死にたい」と日々願っている人間だとしても。「死ねない」と日々悩んでいる人間だとしても。故障した車を置きざらしにした生気のない別荘で今日をギリギリ生きていたとしても、あなたはかけがえのない存在なのだ。この戯曲はシノダに、サトウやアオキにそんなことを伝えているようにも私には思えた。
それは、人一人の存在が与える影響の大きさであった。私たちは、あなたたちは、私も、あなたも、存在しているだけで誰かの今を少し救っているのかもしれない。たとえばこんな風にふらっと久しぶりに旧友に会いに来ることなんかで。それを戸惑いながらも迎え入れることなんかで。
「死にたい」と願っている人に対して、「死なないで」、「生きてほしい」と思ってしまうことは自然な心の反応だろう。同時に、その思いや痛みも知らないままに「死にたい」という気持ちを否定することもできないと思う。できることはただ一つ、なるべくたくさんの想像をすることと、なるべくたくさんの行動をとってみることだけ。「人によって人は救われる」と信じたいと思う一方で、「人一人ができることなどあまりに限られている」とも残念ながら知っている。自分が誰かを救えるなんて、そんなのは傲慢な思い上がりに過ぎない。
一人でいることの孤独、誰かといても感じる孤独。人にはそれぞれの孤独があり、それから完全に逃れることも多分できない。シノダだけではない。アオキやサトウだけでもない。人間は誰しもが「死にたい」と思う夜や、「死ねない」と悩む朝を持ち得るのだとも思う。だけど、孤独な足もとをそれぞれ照らし合うように、再会の一夜を過ごした3人を見ていると、ただ会うというだけで、孤独の沈黙を一つ破るだけで変わる風景もまたあるのかもしれないと感じるのだ。「大丈夫?」を「何かできることある?」に変えることでようやく聞こえるSOSがあるのだということも。
私と同じ故郷で生まれ育ったあの人、そのご家族は「もう見つからないと思っていたから」と従兄弟にすごく感謝をしていた。警察によると、こういった例は決して珍しくないらしい。「会えない」ではなく、「見つからない」。その言葉がいつまでも胸に残って離れなかった。
あの人にもそんな時間があっただろうか。あの森に入っていく前でもいい。彼が「見つかる」と形容される姿になる前、まだその生きた姿に「会えた」時間、その中で、彼が誰かに手を差し伸べられ、そして、差し伸べたことが。そう思いたい傲慢さを自覚しながら、それでもやはり、きっとあったと私は思う。その人もまたこの世界においてかけがえのない存在、誰かにとって必要な存在だったから。存在であるから。たとえ、彼が「死にたい」と「死ねない」の狭間を彷徨い、その果てに死を決意したとしても、今はもう会えなくても、それだけは確かなことだと思う。森の奥深くで、その静けさの中で手を伸ばし合った三人を眺めながら、私はしきりにそのことを考えていた。その人のことばかりを考え続けていた。
(2024.7.17公開)
丘田ミイ子(文筆家)
1987年滋賀県生まれ。2011年より『Zipper』『nina’s』『リンネル』『LaLa Begin』などのファッション誌で主にカルチャーページを担当。その後、2014年の第一子出産後から演劇の取材執筆活動を本格始動。寄稿媒体は『演劇最強論-ing』『ローチケ演劇宣言!』『SPICE』『演劇批評誌 紙背』等。他の掲載作に私小説『茶碗一杯の嘘』(『USO vol.2』収録)、随筆『母と雀』(文芸思潮エッセイ賞優秀賞受賞作)他。2023年よりCoRich舞台芸術!まつり審査員を務める。