※掲載の文章は、第12回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。
盛夏火『スプリング・リバーブ』講評
【徳永京子】
(会場を見て)盛夏火さん、どちらにいらっしゃいますか。おつかれさまでした。大好きな作品でした。「せんがわ劇場とは」「せんがわ劇場演劇コンクールとは」というところから始まる幕開けにふさわしい作品で、スムーズに客席の関心を引くことにも成功していたと思います。話の中心にあるタイムリープは、世の中のさまざまな作品で扱われていますから、下手をすると陳腐になりがちですし、理屈として合っているかに注目されがちなリスクもあって──実際、専門審査員の間でも「3月との2か月の時間差の中で、誰がどこにいるのか」といった話題も観終わったあとに出ましたし、そこに注目した見方をしても成立する作品だろうとも思いました。
でも私がそれより強く感じたのは、作・演出の金内さん、作品に関わっている皆さんの好きなもの、こだわりが集められ、それによってつくり上げた世界を多くの人に伝えることに力を注いでいたことです。タイムリープの理屈も、地元ネタも、よく考えられていたけれども、すべてはエンディングのためにあった。全員並んでのカーテンコールなど、たとえ慣習や常識であっても、自分たちが納得できないことはしない。本当に好きなものだけを舞台上に積み上げていき、ビジュアルも中身も本当に納得できるラストシーンにする、そのためにさまざまなロジックや技術が使われていたように思いました。私は“回収”を上手くやって得意げになっている作品が好きではないんですが、この作品は全体が、最後から巻き戻すと素晴らしく壮大な回収になっていると感じました。
ただ、好きゆえに客観的になれないからか雑なところもあって、例えば、みんなで元の世界に戻ろうと円陣を組んで念じるシーン、あれはおそらく『漂流教室』(※)だと思いますが、もっと真剣に祈らないと『漂流教室』のリスペクトにはならないですよね。そういったところがいくつかあり、残念でした。
それと、新山(志保)さん、内藤(ゆき)さん、とてもよかったです。いわゆる“演技が上手い”という定義からは外れますが、キャラクターとしては癖があるのに、観客をいつの間にか同伴者にしている自然な居住まいとチャーミングさがありました。
※楳図かずおの漫画作品
【高田聖子】
盛夏火のみなさん、どうもおつかれさまでした。私も大好きでした。本当に楽しかったです。みなさんがこのコンクールのトップバッターで、本当に場が温まりました。そして、演劇への愛情みたいなものをすごく感じました。
歌から始めるところなんか、私たちも最初は「逆リスペクトというか、演劇ってダサい、絶対バンドの方がかっこいいに決まってる」と思っていましたけれど、でもそれは、やっぱり演劇が好き、素敵な演劇が自分たちにはあると思ってるからなんだと感じられました。
先ほど徳永さんが雑だとおっしゃったところ、私はすごく好きで、もっと乱暴にしてほしい、もしかしたらその雑さが狙いなんじゃないのか、と思ってしまいました。たとえば、円に置いたラベンダーの中を平気でズカズカ通ることも、これはあえてなのか?どっちなのか?とか。これは好みですが、もっと乱暴にやってくれたら私は大笑いしたな、と思いました。とても楽しかったです。ありがとうございました。
【長田佳代子】
おつかれさまでした。本当にトップバッターで大変だったと思います。私も高田さんと一緒で、朝イチに目が覚めるように笑わせていただきましたし、楽しい舞台でした。
演劇に限らずモノづくりの基本として、まず自分がいて、自分が好きだと思うものを周りに並べて、それが同心円状に広がってぶち当たったところに他の人がいる。それを繋げていくと、気づいたら劇場にいて、気づいたらお客さんがいる。演劇を作り始めた時の、基本の自分の居場所みたいなものを大切に守っている。
演劇は好きだけど劇場は嫌い。私もそうなんですけど、劇場に来るのが苦手な人って多分いると思うんです。それを払拭してくれたという意味でも、面白いと同時に、観ている間ずっと心があたたまる、そんな作品になっていたと思います。
本当に楽しく、そしてあたたかく観させていただきました。ありがとうございました
【松井 周】
おつかれさまでした。演劇を好き嫌いというか、劇場でどういうふうに遊ぶかってことを本当に必死に考えて、遊んでみて、あるいはリサーチして、仙川という場所に照準を絞って、地図・場所から劇場の中の構造まで考えて作った、遊んでみたということが表現されていて、非常に面白かったです。
その中で僕が思ったのは、カーテンコールがこのあとしづらくなったということ。(会場笑)あの爆弾をトップバッターで仕掛けるのもすごかったし、それを面白いこととしてちゃんと見せてくれたのが、盛夏火さんのすごく面白い要素だなと思いました。
一方で、タイムリープの仕掛けも、3月の自分たちと5月の自分たちを登場させる、こっち(下手)から登場する場合とPAから降りてきた感じで登場させる場合、劇場の使い方で時間の表現をするのも面白いとは思いました。が、そこに何かしらの違いというか、ちょっとした変化があるのかないのか、そういうことをもうちょっと引っ張って見せても面白いものがあったんじゃないかなという感じは、最後ちょっと残ったりもしました。
ある意味、その辺のドラマをやらない宣言のような感じもするので、演劇とか劇場へ突っ込みを入れる感じは、これからも貫いて面白いものを作ってほしいなと思いました。ありがとうございました
【三浦直之】
おつかれさまでした。本当に、フィクションに対する愛憎を感じました。その愛憎の形がすごい独特だなと思いましたし、どんどんこれからも掘り下げていって欲しいなと思います。
例えば、フィクションに対する違和感。舞台上で、客席にお客さんがいることを無視できない、フィクションであっても事実は無視できないということに対するものすごい執着を感じました。ただ一方で、フィクションのお約束に対するものすごい愛情も感じるんですね。例えばタイムリープするときのラベンダーとか、設定について饒舌に喋れるやつが突然現れるとか。
これがあまり見たことがないバランスで、すごく面白いなと思いました。
あと、終わるということ。
この時間は終わってしまうこと、40分以内という限られた制限時間、ここから抜け出す時の固有名詞が、閉鎖性を作ってるなと思いました。
劇場という限定された空間、演劇も少し閉じたコミュニティだし、ある時期に遊んでいた文房具も世代に対する閉鎖性だし、この町、仙川で暮らしていた思い出を話すのも、そこで暮らしてた人たちの閉鎖性。
最後にどうやってそれから抜け出すかということと、タイムリープというモチーフがすごく繋がっているように感じました。
そして今回、劇場でやるのは初めてだそうですけど「本当を立ち上げること」について。普段、家とかで(上演を)やっている時は、そこに本当に「本当」があるから、特に何もしなくてもお客さんに「本当」が見えるんだけど、劇場ってやはりすごく匿名的な場所なんだなと思いました。観ている人に地図を見せて、仙川の位置関係を説明するだけでは、もしかしたら観客が想像する「本当」にはまだ足りないかもしれないとか、そのバランスがもう少し、いろいろこれから挑戦していけるのかなと思いました。おつかれさまでした。
撮影:青二才晃(ちょうふアートサポーターズ)