※掲載の文章は、第12回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。
ほしぷろ『「なめとこ山の熊のことならおもしろい。」』講評
【高田聖子】
ほしぷろさん、予選の映像作品を見たときに私は正直、この四角い舞台上でどうなさるんだろうと思ったんです。素晴らしい自然をバックに、というか自然の中に存在して、長い時間をかけて上演されるという形だったので、この、作られた(空間である)劇場でどうなるのかと思ったんです。
けど、最初にこの劇場に入ってこられるところから、だんだんに劇場自体が光り輝き出して、全く別の場所に変わっていった様は本当に感動的でした。
神事のような祭りのような、どこにでもあるちょっとケミカルなものを使って始めるっていうところにも唸りましたし、まず「人ではないものがそこにいる」と思えました。最初から最後まで感動させていただきました。(会場内を見て)どちらにいらっしゃいますか?どうもおつかれさまでした。素晴らしかったです。ありがとうございました。
【長田佳代子】
おつかれさまでした。本当に素晴らしい作品を見せていただいたなと思います。
私も常々、養生シートを使いたいと思っていたんですけど「今すぐ特許を取ってください」というような使い方で、もう二度と私は美術で養生シートを使えないという悔しさが残る上演でした。
プロセニアム(※)の劇場で、画面を上と下で分けるのってすごく難しくて、しかもあのようにピシッと世界を分けることは、見切れがあったりとかで、やりたくてもなかなかできないんです。本当に、神が降りてきたような美しい風景を見せていただきました。
宮沢賢治の作品が持っている、言葉の宝箱みたいな一つひとつの美しい言葉を壊すことなく、それでいて現代の無機的なものを上手く組み合わせて世界観を作り上げていました。
今の社会情勢を入れながらも、作品重視というより、結局役者さんを見入ってしまうというところ、発している言葉、からだ、そこにいる空気をとにかく全部背負ってここまで来てくださったということに対して、本当に素晴らしい作品だったなと思います。おつかれさまでした。
※観客席からみて舞台を額縁のように区切り、舞台と客席が明確に分けられる方式
【松井 周】
おつかれさまでした。お二方が仰っていたように、僕も、やっぱり最初の引き込み方が、星さんだと思うんですけど、客席と結ぶ関係が、最初からこの劇場のサイズをきちんと把握してるという感じの喋り方に安心して、境目なくそのまま、テープで作られていく世界にどんどんいざなわれました。
テープで作られていく立体造形のデザインも非常に良かったし、その辺から、なめとこ山と熊と都会の街みたいなものの映像が重ね合わされていて、現代に「なめとこ山」という宮沢賢治の話を重ね合わせる手法もとても無理なくいっていました。
さらに俳優二人の演技の中で、熊を殺すあるいは自分が殺される、殺す殺されるっていう関係を、きちんと儀式として見せる手法も、銅鑼(どら)を出してくるのも非常に面白く観ました。
ただ「ファミチキ」と「熊の肉」、「ペットと意識が通じ合うこと」と「熊と意識が通じ合うこと」みたいに、現代と宮沢賢治の話が接続していくけれど、これは現代批判みたいなことと繋がるのか?それとも、どうこれが重ね合わされたのか?
こうした点をもうちょっと、「童話の世界」と「現代の世界」として切り離す、あるいはすごく接続させる、という思い切りも見たかったなという感じは残りました。ありがとうございました。
【三浦直之】
おつかれさまでした。舞台上に異界がしっかり立ち上がって、本当にすごいなと思いました。舞台セットやアイテムもシンプルな中で、俳優の身体とアイテム、映像の力でこの時間、異界をしっかり立ち上げていた。最初の客席に話しかけるところ、ああいうのって、お客さんの心をちゃんと解けるか(というと)、逆に警戒させちゃう時があると思うんですけど、しっかりちゃんと解いていた感じはしました。そこの入りがすごく良かったし、この場所、この空間をちゃんとフラットな場所にすることで、それから立ち上がる異界の飛距離がちゃんと伸びた。だからあそこでフラットな空気を作って、そこから異界を立ち上げていく時の感動はすごくありました。
あと、(上演を)見ながら、今日来るとき、空が曇りだったなと思いだしたんですよね。それは本当にすごいことだと思いました。今ここで舞台上の作品を観ながら、今日の外の天気を想像したということ、その感覚を覚えたということで、この舞台で試みられたことは成功してるんじゃないかなと思いました。おつかれさまでした。
【徳永京子】
ほしぷろさん、おつかれさまでした。素晴らしい作品でした。他の専門審査員の講評でも出たように、最初に入ってこられた星さんの、言ってしまえばいわゆる客いじりなんですが、舞台上と客席の境界線をあいまいにする効果を発揮して、非常に上手くいったと思いました。境界線を可視化した上で曖昧にするのは、おそらくこの作品に込められたテーマだと感じたんですが、「演劇と映像」「町と里山」「人と獣」などの境目について、宮沢賢治の「なめとこ山」という小説を非常に有効に使って表現していて、高いレベルで成功していたと思います。
そして多分、そうした中でひとつだけ、曖昧にしないものを残したのではないでしょうか。それは瀧澤さんが演じた「人1」の孤高ぶりで、星さんが演じた「人2」は、先ほど言ったように客いじりを巧みにやったりして「俗物」なんですよね。原作の世界で言えば、熊に敬意を持っているけれども生活のために殺して、里に降りてわずかなお金に換えることができる人間。けれども「人1」は、絶対にそうした「俗」には行かない、行けない。ヒトというケダモノで居続けるんだという意志を強く感じました。せりふはほぼなかったのに、その存在感と説得力たるや凄かった。人か獣かわからない、慟哭なのか遠吠えなのか判然としない声、それが歌になっていくところ、引き込まれました。
それから細かいことですが、体に巻き付けたコード付きの電飾が途中で消えたのは……あれはトラブルですよね? 戯曲では「好きでピカピカしてるんじゃない」とあったのが、「好きでクルクルしてるんじゃない」に変わっていたので、トラブルに対応したアドリブなのだろうと予想していましたが、咄嗟にあのせりふに変えるのはなかなかできることではない。演者同士のコミュニケーションも良く取れていたのだと思います。
撮影:青二才晃(ちょうふアートサポーターズ)