※掲載の文章は、第12回せんがわ劇場演劇コンクール表彰式の際の講評を採録・再構成したものです。
エリア51『てつたう』講評
【長田佳代子】
おつかれさまでした。事故が起きた、被害者なのか加害者なのか、誰も悪い人もいない、でもどうすることもできなかった命がそこにあった、というニュースを、(私たちは)何年も、ほぼ毎日見ています。そういう社会的な話や、命の延長線上にある「人に触る」「触って温度を感じる」ことの偉大さ。扱ってるテーマや裏にあるものは重いけれども、美しく軽やかに表現されていて、(たった)40分なのかと思うくらい、すごく充実した時間だったと思います。
幕開けの緞帳の使い方が見事で、そこで見せた手の動きと同じような動きが、中盤になって出てくるところも、演出的にも皆さんの動き的にも見事でした。
また、(舞台の)後ろに並んでいるごみの先に、本当に小さく花がいけるところがあるというしつらえも本当に素晴らしいなと思いました。ここで何月何日に事故がありました、目撃した方は〇〇警察までご一報くださいという看板や居酒屋からさっき出されたごみの横に、ちょっと花が飾ってある。亡くなった方に対する花が、ごみと同レベルの場所に生けられている。残念ながら日常的によく見る風景ですよね。ありがとうございました。
【松井 周】
おつかれさまでした。最初から、幕で遮るというか細くして、手をフォーカスさせるように始めていき、その手も一人の手ではなくてずっとつながっている。ある意味部分というか、どこで切っていいかわからないような感じ。
繋がってるのは、例えば身体のいろんな器官が繋がっていることであったり、家族であったり社会であったり、車の構造だったりして、というように見せる。
実は私たちが個人だと思っていて「私」という意識で切ってるものは「私」じゃないんじゃないかという感覚をもとに、それを表現するにはどうするかということからきちんと始めて、身体表現のあの形があった。誰かの背中に張り付いてる椅子とか、常に何かと繋がっている状態の中で、じゃあ他者と出会うというのはどういうことなのかを真摯に考えた表現になっていたと思います。速度や距離、時間、そういったものの扱い方、他者に触れたりすることもそうですし、過去との距離、そういうものに対して非常に繊細な表現だったなと思います。
さらに、会話の部分で非常に面白かったのがやはり、義父の存在です。あの人は、非常に理解があるフランクな部分と、家父長制の中で生きてきた変えられない自分という、ちょっと矛盾を持った複雑な人物。その人と主人公が繋がる時、どう捉えればいいのか、もう自分たちは善悪じゃ捉えられない世界にいて、その中でどういうコミュニケーションをとるか、悩んだままやるというのが面白かったと思いました。ありがとうございました。
【三浦直之】
おつかれさまでした。繋がりすぎてしまうことと繋がりすぎないことの狭間で、それでもどうやって関係を結んでいくか。たくさんの細かいグラデーションが描かれているなというふうに感じました。
最初にすごく手がフォーカスされるから、手の動きをいちいち見てしまうんですよね。僕は「よっ友」のモチーフがすごく好きで、(すれ違う時お互いに)「よっ」て言って手を挙げるけど、その時、手は誰に触れられることなくただ挙げたまま下げられるとか、いちいち手の動きが印象に残っている。
あと、身体にこだわり続けるのもすごくいいなと思います。現代的な弱いつながり方を描く時に、SNS的なものに行くんじゃなくて、ただすれ違って「よっ」ていう「よっ友」。ちゃんとリアルな対面が存在するけど、その中でどういう弱いつながりがあるか。身体にこだわっていくというのもすごく良かったと思います。
僕がすごく感動したのがラストシーンで、最後どういう出会いがあるんだろうと思って観ていた時に、煙草というアイテムがすごく効いてるなと思いました。煙草を吸うことでそこに空気があることを観ている人は感じる。私とあなたは触れ合っていないけど、その間に空気がある。その空気を伝わって、私とあなたがコミュニケーション取るっていう。そのことにすごく感動しましたね。演劇そのものについての物語ともみえるし、演出と俳優だったり。どういうふうにコントロールするされるとか、触れる触れられるとか、その狭間をずっとずっと描いていってるのがとても良かったです。 台本を読んでいるとユーモラスな台詞のやり取りがすごく多いので、それがもう少し客席に伝わるといいなと思いました。もっといっぱい笑える瞬間があるなと思ったので。それも伝わるとより良くなるかなと思いました。
【徳永京子】
エリア51さん、おつかれさまでした。力作でした。人と人とのつながり、あるいは、つながれなさについて、ひとりの動き、ふたりの動き、多人数によるフォーメーション、あるいは体の部分と全体を使って表現されていましたが、演出の手数が豊富で、しかも統一感があり、観ていてまったく飽きませんでした。
そして、戯曲がとてもよかったです。良いせりふがたくさんありました。“良いせりふ”というのは、ごく普通に使われている短い言葉なのにイメージが豊かに広がったり、何気ないひと言でそれを言った人物の過去がスッと見えてくるような言葉ですね。“せりふ”というより“言葉”と言いたくなる、そういうものがたくさんありました。
フィジカルの演出の話に戻すと、ひとつのポーズ、動きから両義的な意味が思い浮かぶことが多く、例えば、ふたりが背中をつけてもたれあうシーンがよく出てきましたが、“背中をつける”のは支えあうとか頼る、甘えるのと同時に、“背を向ける”ことにもなり、先ほどの言葉のことも併せて、舞台上のさまざまな場所に、入口は普通なのに奥には多くの意味が広がっている、そうした物事が増えていったのが良かったですね。
それと、先ほど長田さんも、ゴミ捨場のような小道具について言及されましたが、あれは、最後の最後に照明が消えた時に、壁に映るシルエットが街並みになるように置かれていたんですよね? 最初の、劇場の緞帳を使ったTikTokサイズのような小さな動きに観客の視点を集めて、俳優の動きで場所を広がていき、最後に壁のゴミで、彼らが住んでいるであろう、あるいは私たちの住んでいる街が再現された。細かい仕掛けですが、とても効果的でした。
【高田聖子】
本当にお疲れさまでした。素晴らしかったです。皆さんがたくさん感想を仰っていて、最後になると言うことがないくらいなんですけど、本当に始まりから惹きつけられました。2次予選で拝見した映像とはかなり違うもので、その点でも驚きました。
群唱したり皆で揃えて言葉を発したりというところは、少し懐かしい気持ちもしました。私たちの若い時というか2~30年前には、群唱するのがとても流行った、なんて話をしたらエリア51さんは、演劇の歴史じゃないけど、今あえて、昔からやってきた手法を改めて使ったのではないか、それが狙いなんじゃないかという話を聞いて、面白いなと思いました。
また、台詞がとてもポップというか、本を読んだ時点で面白いと思っていました。(劇中では)身体がずっと物や誰かと繋がっている、途切れない時間の中で、そのポップな台詞が、弾みすぎずにずっと底にくっついている感じ。そこに現代の、素直に言葉が言えなかったり、自分が思ってる通りにいかない、触れ合いたい人と触れ合えないけど、そうでない人と触れ合わざるを得ないこともある、そんなもどかしさも感じました。
動きが美しくて、すごい練習量だったろうと思いました。それをどう評価すれは良いのかと、とても困りました。おつかれさまでした。
撮影:青二才晃(ちょうふアートサポーターズ)