往復書簡~第11回演劇コンクール講評をめぐって
第11回コンクールが終了して間もなくの2021年6月28日、同コンクールのファイナリストとして参加され、演出家賞を受賞されたムニの主宰・劇作家・演出家の宮崎玲奈さんが、ご自身のnoteに「せんがわ劇場演劇コンクールの講評の言葉は批評の言葉なのか」という文章を掲載されました。内容は主に、専門審査員のおひとりである西尾佳織さん(鳥公園主宰・劇作家・演出家)が述べられたムニへの講評に対する疑問でした。
せんがわ劇場演劇コンクールでは以前から講評を重視しています。「一次審査で選に漏れた団体に、複数の審査担当者の感想をフィードバック」「専門審査員の講評を担当制にせず、すべての専門審査員が全ファイナリストを講評する」「参加団体、専門審査員、一般審査員を交えたアフターディスカッションの実施(この年はオンラインで実施)」といった取り組みを行っており、その考えから、宮崎さんの投げかけを一方的なものにせず、何か形で応答したいと考えました。
毎年の専門審査員は、劇作や演出、身体表現やメディア関係など、演劇にかかわるさまざまなジャンルで活躍される方にお願いしており、西尾さんにオファーをしたのは劇場サイドです。ですから劇場に説明責任があるとも思いましたが、noteに書かれた宮崎さんの思いは非常に繊細で、西尾さんと直接、言葉を交わしていただくのが最も良いのではないかと判断し、おふたりに「往復書簡という形でどちらもが納得できるまでやり取りをしていただけないか」とお願いところ、揃って了承いただきました。また、終了時に公開というご理解もいただきました。
2021年10月10日から翌年の10月3日にかけて、振り返るとわずか4通のメールですが、ご存知のようにムニも鳥公園も、心身が疲弊するコロナ禍でなお、活発に活動されていました。そうした中での貴重な時間を割き、とても正直に、誠実に、言葉を書き出してくださいました。おふたりの短くないメールは、講評についてはもちろん、創作について、言葉が誤解を生むことについて、誤解が生まれたあとについて、たくさんの示唆が含まれていると感じます。宮崎玲奈さんと西尾佳織さんの勇気に深く感謝します。
文責・せんがわ劇場演劇外部アドバイザー 徳永京子
西尾さんへ
宮崎玲奈
(2021年10月3日)
こんにちは。
noteの記事を書いて少し時間が経ってから、せんがわ劇場から往復書簡をやらないかというお話がありました。お話があった際に「宮崎が気に食わないと意見を言ったから、こういう場が設けられた」という見方もできると思い、お引き受けするかどうか迷いました。
「講評の言葉は批評の言葉なのか」についてお話するというよりは、西尾さんがどのように演劇を捉えているのか、往復書簡の中で知りたいと思いました。演劇をどのように捉えているから、コンクールでの個人の講評があるのだというようなことです。それはわたしだけが知りたいことでもないような気がしています。
講評があくまでも個人の意見だとするならばそこに、「どのように演劇を捉えているから、こう思った」の部分があった方が、今年は講評の時間が削られたこともあり、より本意を理解することができたように感じます。
また、最も伺いたいのが、女性表象に対しての講評部分についてです。この部分はnoteの記事を書くきっかけになった箇所でもあり、一番気になっていることです。
引用-----------
出演者の南風盛(はえもり)もえさんの立ち方と声、発語の仕方かすごく気になってしまいました。審査会では「村上春樹の小説を読んだ時に感じる『なぜこの人がモテる?』というのと同じ感じを、この作品世界の女性に感じました」と言ったのですが、他人に対して薄い。この人に対して登場人物の男の人が好意をもっていくという流れに、私は説得されませんでした。
(ム二「真昼森を抜ける」西尾佳織講評から引用。以下、講評または相手の書簡からの引用部分は色も含めて同様の表記とします)
引用ここまで-----
該当部分に関して気になることは、以下の2点です。
- 女性表象についての指摘(指摘する際の表現・好みと講評の違い)
- 特定の俳優に対しての演技の指摘
まず1.についてです。
村上春樹の小説に出てくる「なぜこの人がモテる?」というのと同じ感じ、という表現には含みがあるように感じ、素直な受け止め方ができません。女性の主人公が好かれる時に、積極的じゃないといけませんか?強くなくてはいけませんか?それは「好み」の範疇なのかなぁとも思っています。他人に対して薄い、のは女性の主人公だけなのかなぁ、とも思いました。最終的には「好み」の問題でもあるというのも理解できるのですが。
西尾さんがこの物語世界の女性主人公のあり方に納得されていなかったということに変わりはないと思いますが、「村上春樹の小説に出てくる女性」とキーワード化して、村上春樹の小説に出てくる女性にも「真昼森を抜ける」に出てきた女性にも私は説得されない、と言っている。このセンテンスを個人的には議論したいです。講評は良いところだけでなく、未熟なところも指摘する必要があって、その点に難しさもあるとは思うのですが、このセンテンスで行われていた、自分がよくないと思っているものを俎上にあげ、同列化するという方法が気になります。個人的には評を行う際に積極的に取りたくない方法です。
「女性の作家なら、母殺しの物語を書きなさい」と年上のプロデューサーから言われたり、「女性らしい作品」と戯曲に対してコメントされたりと、決して良い気持ちのしない経験が24歳の現在までにありました。ジェンダーに関しての好みを押し付けないでほしい、と思う場面に多く遭遇します。これは私の甘えかもしれませんが、同じ女性の劇作家ということもあり、このような発言をされると思っておらず悔しいなぁというのもあります。
次に2.です。特定の俳優の名前を指して指摘することを個人的にキツいと感じます。コンクールなので指摘する必要もあるかとは思いますが、一人の演技を違和感がある、良くないと言うことの暴力性についてもお伺いしたいです。
最後になりましたが、作ったことに対して「なぜ」と言われること、作品を説明する責任が作者にもあるとしても、コンクールの結果発表後のディスカッションの時間も作者が答えを持っているように見えると解釈が狭まってしまうのでないかと感じました。
以上の点について議論できたらと思っています。
往復書簡を無償でお引き受けいただきありがとうございます。これから、どうぞよろしくお願いします。
宮崎さんへ
西尾佳織
(2022年2月15日)
こんにちは。
お手紙をいただいてからお返事を出すまでに、すごく時間がかかってしまいました。ごめんなさい。この往復書簡のことがずっと頭にある状態で日々過ごしていました。もう2022年度のコンクールが近付いてきていますね。
去年の5月29日、コンクールの1日目が終わった後に劇場を出て駅まで歩いて電車に乗って、すごくポケーッとしていました。途方に暮れるような感じです。それは、そのときの演劇に対する自分の感覚(距離感)が、産前とあまりに違っていて戸惑っていたのでした。そのとき、大体産後1年4ヶ月くらいです。
以前の私は演劇バカだった、これはあまり良くない意味で、と帰りの電車の中で考えていました。以前は演劇に自分の生きることのほとんど全部を注いでいて、そのことを対象化して認識することもなかった。けれど今の私は、演劇に対してずいぶん醒めている。客席にいながら同時に自分の中に、劇場に来るために必要だった色々な調整、家族の助け、家で過ごしている子供のことなどがあり続けて、以前のように無条件に前のめりには観られない。そしてそれはいいことだ、と思いました。私は初めて、人がどんな思いで劇場に来るのか、どんなエネルギーを費やして、それぞれの生活の中のやりくりをして、その支払いに勝る期待を抱いて劇場に来るのかを実感できた気がしました。この感覚を大事にしながら、明日も審査員の仕事をしようと思いました。
(そしてこの感覚が講評の「観客は優しい友達ではないので、『どちらでもいい』みたいなことが沢山あると、……」という言葉の背景にありました。)
もう一つ、審査員を務めるにあたって自分の前提になっていたものとして、私自身が審査をされる側として参加したコンクールの記憶があります。そのときの審査会は公開だったのですが、審査員の人数が多すぎて(それだけが要因だったわけではありませんが)、「え! AさんとDさん正反対の意見言ってるじゃん!」と思うような場面でも十分に議論がなされることのないまま、主に得票数の多寡によって賞が決められていきました。私はそのことに、納得がいきませんでした。賞をいただいたのですが、それで一体どういう価値を認められたということになるのか、分からなかったのです。
どんなものであれ賞というのは、それぞれに具体的な何がしかの価値を信じている審査員Aさん、Bさん、Cさん……という人たちが、例えば「2022年の今、私たちが大切だと考える価値はこのようなものです」という共通の基準をどうにかこうにか打ち出して、それに値する作品に対して授賞するものだと思います。基礎になるのは「わたし」を主語にした個人の価値判断である、というのが私の考えです。それをきちんと開示して伝えることが、審査員の仕事だと思って臨みました。
と言っても、私の言う「個人の価値判断」というのは「好み」とは全く異なるものです。自分の好みを無化することは出来ませんが、審査員として好みでものを言うということは、私にはちょっと出来ません。
審査員という立場で作品を観るとき、私がどういう過程を通るかというと、まず1.「ムニという団体は何をしようとしているのか?(=問題意識) こういうことをしようとしているように私には捉えられた」があります。そして2.「1.をどういう方法で実現しようとしているのか? こういう方法で……と私には捉えられた」があります。3.「2.の方法で実現しようとすることは、上手くいっているのか?」、4.「上手くいっているとして、そこにどういう意義があるのか? 評価できるか?」という感じです。
『真昼森を抜ける』の上演に即して書いてみます。
- ムニという団体は、演劇というのは観客の中で(あるいは上演と観客のあいだで?)立ち上がるものである、と考えているように私には思われた。
- 1.を実現するために、俳優は登場人物になりきろうとするようなベクトルとは真逆の、台詞のニュアンスを極力削ぎ落とす素読みのような言葉の扱い方をしている。
- 2.のやり方が、どうも南風盛さんにおいて上手くいっていない気がする。そこで私の鑑賞体験の回路にいちいちチリッとノイズが走って、劇が立ち上がることが阻害される感がある。
- 1.の問題意識と2.のアプローチは、面白いし可能性があると思う。しかし3.の俳優による実践において、上手くいっていない部分がある。そのことを、俳優本人と演出家はどう考えているのか? 共演している俳優も、どう考えているのか?
4.が講評の、
引用-----------
出演者の南風盛(はえもり)もえさんの立ち方と声、発語の仕方がすごく気になってしまいました。審査会では「村上春樹の小説を読んだ時に感じる『なぜこの人がモテる?』というのと同じ感じを、この作品世界の女性に感じました」と言ったのですが、他人に対して薄い。この人に対して登場人物の男の人が好意をもっていくという流れに、私は説得されませんでした。
上演における表象し方としてなぜあの形を選択したのか?なぜこういう発語なのか?というところがすごく気になって、演出家の宮崎さんはどういう判断でこの発語を選んでいるんだろうか、とも思いました。
引用ここまで-----
の部分です。
村上春樹のくだりは、書かない方がよかったですね。というのは、1.私が伝えたかったことと全然違うことが伝わってしまっていたと、宮崎さんからのお手紙を読んで分かったから。2.宮崎さんのご指摘の通り、「自分がよくないと思っているものを俎上にあげ、同列化するという方法」はたしかによくないと思ったから、です。
それはさておき、大きな誤解があると思ったのは、私が「村上春樹の小説を読んだ時に感じる『なぜこの人がモテる?』というのと同じ感じ」と書いた部分の「この人」というのは男性の主人公です。
私には、当該キャラクターが「女性」だからどうこう、ということを言う意図は一切ありませんでした。なので宮崎さんからのお手紙の、同じ女性の劇作家である西尾さんに、ジェンダーに関して「こうあるべき」というようなことを言われて悔しい、という部分には、これはずいぶんこんがらがって伝わってしまったぞ……と驚きました。
私が引っ掛かっていたのはあくまで南風盛さんの演技であって、女性キャラクターの人物造形ではありません。「上演における表象し方」という言い方が伝わりにくかったと思うのですが、「表象=女性キャラクターの造形」ではなく、「表象し方=俳優がどのようなアプローチで表象をするか、その仕方」に問題があるのではないか?と指摘しました。
ただ、講評の時点では私も、その演技において何が起こっている(ように見える)のか、それの何が問題なのかまではよく分かっていませんでした。そのために講評の言葉がいまいち明瞭でなく、意図をきちんと伝えられない文章になっていたと思います。
宮崎さんから応答をいただいたこともあり、私もこの引っ掛かりをもっと適切に言語化したいと思っていました。そしてそれは、「カメラ・ラブズ・ミー!」の三部作を拝見していたときにだいぶ言葉になりました。
……と言いつつ、書き言葉で上手く説明できる自信があまりないのですが。
先ほど、2.「1.を実現するために、俳優は登場人物になりきろうとするようなベクトルとは真逆の、台詞のニュアンスを極力削ぎ落とす素読みのような言葉の扱い方をしている」と書きました。でも南風盛さんを見ていると、削ぎ落とした上に「素読みをしている南風盛です」というプラスの主張を感じることがしばしばあるのです(そうすることによって、キャラクターに一致しようとしてしまいそうになる向きに抗っているのかなと推測したりしましたが)。また、声にもひとさじの感傷(エモさ、甘さ)が技巧的に加えられている感じがあって、そこで私は毎回ギザッと止まってしまうのです。
講評の「他人に対して薄い」という部分、講評を書いた時点では感覚的にそう捉えたに留まっていて言葉足らずだったのですが、今分かるようになったのは、これは俳優同士の関係についての言葉でした。「素読みをしている南風盛です」という小さな主張も、声に感傷のニュアンスを乗せることも、舞台上の上演の渦中で生成し続けている劇の回路とは無関係のことと私には思えます。それを「ノイズ」と言いました。
そこにエネルギーを向けるよりも、一緒に立っている藤家さんとか、空間とか、環境を含めた他人に向いた方がいいんではないか。その方が、ムニがやろうとしていることが立ち上がるんではないかと思った、ということだったようです。
長々費やして、宮崎さんからのご質問の「1.女性表象についての指摘(指摘する際の表現・好みと講評の違い)」にやっとお答えしました。
次に「2.特定の俳優に対しての演技の指摘(その暴力性)」についてですが、私は特定の俳優の演技について指摘することが問題だと思いません。個々の俳優が具体的に為している仕事に対して、具体的に取り扱うことがリスペクトだと思います。そして、取り扱われることを引き受ける責任が俳優にはある、とも思っています。(ただしこれは、4.「3.の俳優による実践において、上手くいっていない部分がある。そのことを、俳優本人と演出家はどう考えているのか? 共演している俳優も、どう考えているのか?」と書いたように、俳優本人が一人で対処すべきことではなく、演出家も他の俳優も一緒に取り組む課題だと思います。)
私自身は、自分が劇作や演出を務めた作品について劇評が書かれるときに、上演で具体的に起こっていることについて、つまり俳優が具体的に行っていることについて、なかなか書いてもらえないことを長年不満に思ってきました。俳優の領分にもっと光が当てられるようになって、俳優の為している仕事に深い理解を伴った応答が返されるようになったら、創作現場における俳優の地位も自立性も向上するのではないかと思っています。
俳優の竹中香子さんが以前、演技というのはWhat I amではなくWhat I doを提出することなのだと、ご自身のブログに書かれていました。(そのエントリを探そうとしたのですが、パッと見つけられず。なので正確な引用ではないのですが……。)
What I amに対して指摘をすることは暴力的かもしれません。でもWhat I doというのは、一つのアイディアをあるアプローチでやって見せる、提案するということで、それは俳優が主体的に選択して、採用したり手放したりすることの出来るものだと思います。What I amとWhat I doを区別して、後者でやり取りできるようにしておくところまでは、俳優が自分で完了するしかない事柄であるとも思います。
私はむしろ、特定の俳優に演技についての指摘をするのは暴力的だと宮崎さんが考えるのはどうしてなのかが気になっています。俳優は、演出家や作品の陰に隠れて守られるべき存在なんでしょうか?
長くなり過ぎてしまいました。ご無理のないように、よい塩梅でお返事をいただけたら幸いです。立春過ぎても寒さが沁みますが、お元気でお過ごしくださいね。
西尾さんへ
宮崎玲奈
(2022年4月27日)
こんにちは、お返事ありがとうございます。わたしもお返事が遅くなってしましました。往復書簡で短い講評文だけでは理解できなかった文脈や背景を知ることができました。ありがとうございます。
例えば、「観客は優しい友達ではないので、『どちらでもいい』みたいなことが沢山あると、……」という言葉だけでは理解しがたかったので、知ることができ、よかったです。背景を知っていればモヤモヤせずに済んだ可能性があったと思いました。
講評文の言葉の選ばれ方については未だに違和感があります。作品に至らないところがあり指摘されるという覚悟を参加者は皆持ち合わせているように思います。書簡を続ける中でそういう意味だったのか、と受け取ることができている部分も多くありますし、審査員個人の語り方で講評が成されるという点での好感と、誤読の可能性が大きい文章が講評に含まれていることへの不満が同量にありました。
今回のコンクールでは、参加者は審査過程や審査方法についてほとんど知らされないまま、結果を発表され団体ごとに作品の質疑応答に応えるという形でアフターディスカッションの時間が終了。後日、審査員個人の講評がインターネット上に掲示されました。参加者は講評を読んで、納得していく必要がある、できれば講評に違和感を持ちたくありません。今は、講評文の西尾さんの言葉遣いの背景をこの往復書簡を通して知るという形で納得することができています。対話を尽くしてくださって、改めてありがとうございます。
村上春樹の小説中の「なぜこの人がモテる?」の感じは主人公の男性のことなのだと調べて理解しました。不勉強の解釈違いで失礼しました。性差は関係なく、「なぜかモテる感じ」自体の話で、俳優の演じ方によって「なぜかモテる感じ」性が強くなるという話を、戯曲自体の話でもあると受け取っていました。「他人に対して薄い」と書かれたことに関してもわかりました。
以降は、俳優は、演出家や作品の陰に隠れて守られるべき存在なんでしょうか?についてです。確かに西尾さんは講評で俳優を名指しして発話について指摘した後、演出家が選んだ発話方法についても指摘しているので、俳優だけに責任があると言っている訳ではない。ですが、一文目から俳優が名指しで、納得されなかったという方向での指摘がなされていて、自分が俳優だったら嫌だなぁ、落ち込むなぁ、と思いました。演技が良かったという指摘であれば個人名を上げてでもしていきたいと個人的には思います。どんどん俳優の仕事について詳らかになることは、成されたほうがよいと思います。ですが、演出家や審査員が、よくないと思った演技の場合、個人の演技を指摘していくことは、リスキーな部分もあると思っています。指摘するべきではないという話ではなく、です。また、よくない演技をする俳優がいる訳ではなく、よくない演技の選択をしている俳優はいる、ってことになってくるのでしょうか。作品に対してよくない演技だったと言われた時は、演出が良くなかったのだ、という引き受けをしたいという個人的な話になってくるのかもしれません。演技についてWhat I doについて話す時間が足りなかったのだとしたら、その環境を作るのも演出の仕事の一つだと捉えることもできます。
俳優は自分の行っているWhat I doの部分を語っていっても、いかなくてもよいし、(わたしは語られるといいなぁと思いますが)だから、隠れて守られるべき存在だというのには、NOです。主体的に語ることも賛成です。
お返事をいただいて、モヤモヤしていたものが減りました。丁寧に答えてくださって、ありがとうございました。
どうかお元気でお過ごしください。
宮崎さんへ
西尾佳織
(2022年10月10日)
こんにちは。前のお便りからまた半年が経ってしまいました。今は新作のお稽古中でしょうか?
日々に追われて、毎回お返事をお待たせしてしまってごめんなさい。この往復書簡もそろそろ一区切りかな、と思っています。前回いただいた宮崎さんのお便りの言葉を一部引用しながら、お返事を書きます。
引用-----------
講評文の言葉の選ばれ方については未だに違和感があります。作品に至らないところがあり指摘されるという覚悟を参加者は皆持ち合わせているように思います。書簡を続ける中でそういう意味だったのか、と受け取ることができている部分も多くありますし、審査員個人の語り方で講評が成されるという点での好感と、誤読の可能性が大きい文章が講評に含まれていることへの不満が同量にありました。
引用ここまで-----
講評における言葉の選択については、以前メールの本文にも書きましたが一応この書簡本文にも書いておこうと思います。
私が審査員を務めた第11回のコンクールでは、コロナ禍の影響で参加団体のみなさんに直接講評をお伝え出来なかったため、審査員一人ひとりがインタビューを通して口頭でお話ししたことを文字起こししてまとめていただき、確認・推敲した文章が講評として発表されました。初めから文字で書き始めて文章にまとめる講評と、上記のようなプロセスで出来上がる講評は、当然異なります。どちらにも異なる良さがあると思いますが、私は運営のみなさんが「上演直後の生の話し言葉での講評」に近い形を取ることに重きを置かれたのだと考えました。なので、修正はかなりしましたが、コンクール当日にお話しした調子や言葉遣いを残す方針で講評の文章を推敲しました。
伝えたいことが誤解なく伝わる言葉遣いでお話し出来なかったのは、私の力不足です。でもその問題は一旦措いておくとして、私は、文字で書くときに比べると未整理だったり冗長だったり舌足らずであったりしても、上演に対峙し終えたその続きの状態で出てくる言葉には特有の意義があると思っています。ただその場合、講評がそのようなプロセスで出てきたものであることも併せて、コンクールのサイトに載せていただけるとよかったように思います。初めから文字で書く形であったなら、かなり印象の違う講評文になったと思うので。(これは運営の方々への意見です。)
引用-----------
演技が良かったという指摘であれば個人名を上げてでもしていきたいと個人的には思います。どんどん俳優の仕事について詳らかになることは、成されたほうがよいと思います。ですが、演出家や審査員が、よくないと思った演技の場合、個人の演技を指摘していくことは、リスキーな部分もあると思っています。指摘するべきではないという話ではなく、です。
引用ここまで-----
これについては、私は依然としてよく分からないままでいるんですよね。個人の演技に関して批判的な指摘を伝えることにリスキーな部分があるのは、分かるのですが。……いや、分かる、つもりでいるのですが、宮崎さんのおっしゃっている感覚を、私は本当には理解出来ていないのかもしれません。
私自身は、批判的な内容であっても的を射た応答をいただいた場合は、嬉しいです。もちろんいつもすごく傷付くし、悔しいし、グツグツするのですが、観客からの応答が作品を前に進めてくれると思っていて、それは肯定的なものでも批判的なものでも、自分の問いの解像度を上げてくれて、作品を一緒につくってくれる感覚があります。(ちなみに、ピンと来ない意見のときは、褒められてもぼんやりしてしまうし、批判されても深く気にかけることが出来ません。)
宮崎さんも書かれていましたが、作品の正解を作家が持っているわけではないですよね。でも私は、作品を通して自分が探求したい問いというのはいつもハッキリあって、観客からの応答によってその問いが前に進むと歓びを感じます。そして俳優やスタッフも、その問いにそれぞれの切実さで響き合う部分があるから一緒につくってくれるのだろうと思っています。
一緒につくってくれてありがとうございます、といつも思いますが、同時に「一緒につくってくれる」という思い方をするのは無礼ではないかと感じる部分もあって、これは私のために一緒にやってくれているわけではなく、その人が自分で立って自分で握っている生き方の中でたまたま今回ご一緒できているのだと思っています。だから、作家だけが批判を受け止めることが出来て、他の人にはそれが向かうべきでない、とは全く思わないのです。
……と書いてみて、やっぱり宮崎さんの伝えてくださったこととはどうも嚙み合っていないような気がしています。どのセクションか、ということは関係なく、批判的な意見は全般的にあまり伝えるべきではない(というか、伝え方にもっともっと気を付けるべきな)のではないか、ということでしょうか。
引用-----------
作品に対してよくない演技だったと言われた時は、演出が良くなかったのだ、という引き受けをしたいという個人的な話になってくるのかもしれません。演技についてWhat I doについて話す時間が足りなかったのだとしたら、その環境を作るのも演出の仕事の一つだと捉えることもできます。
引用ここまで-----
俳優の演技に問題があるときは、演出家にも責任があると私も思います。
今回の審査会で『真昼森を抜ける』について検討した際、審査員それぞれにこの作品を高く評価するところがあって、授賞するなら劇作家賞だろうか?演出家賞だろうか?という議論になりました。そこで私は、「何かしらの賞を授賞したいと私も思いましたが、劇作家賞には反対です、演出家賞がいいと思います」と言いました。ムニの上演に私が見た魅力は、戯曲によって要請されたものというよりは、稽古場における演出家と俳優の共同作業から生み出されたものと思われたからです。(この説明から分かると思いますが、「演出家賞」と言いつつ、私は演出家である宮崎さん個人というよりは、演出家+俳優の上演チームに対する評価としてこの賞を考えていました。)
でも演出家賞を授賞するなら、演技についての問題点も併せて指摘しなければいけないと思いました。先にも書いたように、俳優の演技の問題は演出家にも責任のあることだと考えているからです。特に南風盛さんはムニの作品に継続的に出演されているので、そもそも演技について、もしくはムニにおける演技体について宮崎さんはどのように捉えているのか?が私にはクエスチョンでした。そこへの言及抜きに演出家賞を授賞するのは、無責任だと思いました。
(ちなみに、劇作と上演――劇作と演出ではなく、演出家、俳優、テクニカルスタッフが担う上演全体――を分けて評価することは、今回審査員を務める中で私が強くこだわっていたことで、他の団体に対する講評でも意識していました。作・演出を一人が兼ねるスタイルには良さもありますが、それによって生じている問題もたくさんある、そこを改めて考え直したい、というのがここ数年の私の問題意識だったので。)
コンクールが終わってから本当に長い時間が経ってしまいましたが、その間ずっとこの往復書簡が私の中に住んでいて、生活の中でも、本を読んでいるときや劇場で舞台を観ているときにもたびたび、ああこれは宮崎さんから投げかけられた疑問にまつわる事柄だろうか、などと考えていました。具体的には、非対称な関係における関わり方や、権力の引き受け方、自分が理解・評価できる価値の限界について、審査員の仕事を今後も引き受けるとしたら、どういうスタンスで臨めるか?といったことをよく考えました。この往復書簡がなかったらこんな風には過ごさなかったであろう意義深い時間を経験することが出来ました。ありがとうございます。
賞にノミネートされて、何か言われたり何も言われなかったりして、評価される(されない)ということに関して混乱したときに私がよく読んでいた文章を二つご紹介して、この手紙を終わります。せんがわコンクールの審査員を引き受ける前にも、この書簡を交わしながらも、読んでいました。よかったら読んでみてください。
- 鈴木志郎康『結局、極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)の中の「詩の実質――極私的ノート」 結局、極私的ラディカリズムなんだ 鈴木志郎康表現論エッセイ集 (shoshiyamada.jp)
- やまいだれ日記5 疒日記5|kigch|note
賞を授ける/授けられる場で扱うことが出来るのは、作品というものが持ち得る価値のうち、かなり限定された一部です。そのことは、コンクールという場の意義を低めるものではありませんが、作品と、それを生み出す活動は、評価についての場では扱い得ない価値も含んだものだと思います。
宮崎さんの今後の作品も、楽しみにしています。
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