【劇評】第13回せんがわ劇場演劇コンクール グランプリ受賞公演 劇団野らぼう『内側の時間』
第13回せんがわ劇場演劇コンクール グランプリ受賞公演
劇団野らぼう『内側の時間』劇評
山岸 綾
「世界には沢山の窓がある」――冒頭、いわゆる前説というのだろうか、作・演出・出演の前田斜めさんがこう言うと、客入れの案内と少しだけ変わった声音に敏感に客席がシンと集中する。それに少し照れたように、いや芝居はまだ始まっていないのだと言って、劇団の説明等も織り交ぜながら、しかし繰り返されるこの言葉に、私は内心少しホッとした。
劇団野らぼう――主な公演地は長野県松本市の「あがたの森公園」で、普段は作品毎に公園内の場所を選びながら野外公演を行っている/WEBサイトのCreativity(創作活動)の項の最初には「場所、物、空間」とあって、場所や環境、自然の光や車の音など外側の要素も考慮している/せんがわ劇場では前作(せんがわ劇場演劇コンクール『ロレンスの雲』)同様「ゼロカーボン演劇」と銘打って松本市で充電した太陽光の電力を公演に使い、更に今回は目標としてきた自前テントを持ち込んで『劇場内テント芝居』(!)を行う――
初めて拝見するものの、事前に知り得たこれらの情報だけでも心躍るし、実際に劇場内に単管パイプで組まれたテントに入って既に小さく興奮していたが、同時にドキドキと緊張していた。パフォーミング・アーツはずっと好きとはいえ、また劇団野らぼうは、その上演する「空間」に対しての意識がこんなふうに特別とはいえ、建築畑の私が劇評なんて書けるだろうか、と。でも良かった。「窓」ならば、こっちの畑でもよく聞いているぞ、と一瞬安堵したのだった。
しかし、あっという間にこの「窓」は、出入りもできる口に、風が通り抜ける2つの耳に、そして何より外の風景を眺める2つの目となった。そうなるともう畑の外、気付けば私も小さくなって頭蓋骨の家の中、こちらのスケールが前田さんの言葉ひとつで伸縮する。
そうして観客が指示に従い「窓=目」を一度つぶって開くと、ようやく本当に(?)お芝居がはじまって、そこは宇宙がまだずっと小さな子供だったころ、人類が誕生すらしていない世界になる。今度は時間軸の方も何千・何億というスケールで往来を始めるので、クラクラしながら、劇団ままごとの名作「わが星」をちょっと想い出す。けれども「わが星」には“ちーちゃん=地球”を中心に “家族”という関係性と、惑星の誕生から死滅までに重なるひとつの物語があった。
一方『内側の時間』で語られるのは、基本的にひとりひとりの物語、「目=2つの窓」から見える「ほんの一握りの風景」たちである。匂いや音、景色に結びついた「記憶」が、声となって様々な時空から届けられるのを、ラジオをチューニングするようにして順に聞いていく。終演後、前田さんがチラシには作・演出:前田斜めとあるが、今回は出演メンバーが持ち寄ったシーンの集合でできていると語っていた。各々独特の節回しで語られるそれらは、フィクションであると同時に、それぞれの日々とも切実に地続きなのかもしれない、とも思う。
そうしたシーンの中でも印象深かったのは、出演者のひとり、ファーマボギーさんの「片付けられない部屋」のくだりだ。床に散らばるメガネや、自転車の電池、クレジットカード、そして元カノからの手紙は、燃えるゴミ?プラスチック?この国は分別が難しい。日本髪のカツラと素敵なドレスに身を包んだ彼のなんともキュートな語り(ちなみにこの舞台では男性陣はワンピース、女性陣はズボン、が基本)にお腹を抱えて笑いながらも、最後フッと見せる真顔に、そうだ私達はなかなか捨てられない「記憶の粒」たちを、こうしてさしあたり分別して袋にしまって、なんとか生きていくのだよな、とじんわり思わされてしまう。
付け加えるなら、このシーンでボギーさんから観客への「(ゴミの分別を)ホントに聞いているから、答えてくれたら有り難いけど?」という問いに答えるうちに、あるいはシーンとシーンの合間で他の出演者と共にダンスや転換、掃除までこなす縦横無尽のちゅみ少年(4~5歳くらい?)の存在に引っ張られ、更には上演中も写真撮影自由(!)という状況に励まされて、観客の振る舞いがだんだん伸び伸びとしていくのが面白かった。
とはいえ、である。次の場面で「記憶をズンズン積み重ねてきたのだ、ズンズン」という台詞に応えて「ズンズン」と復唱する大きな声が、自分のいる客席側から発せられたように聞こえた時には驚いた。そこまで皆、舞台と一体に?と。直後に舞台の奥・紗幕の反対側の明かりがついて、主にはそこにいる役者達の声だと分かったのだけれど、なぜそんな風に聞こえたかがその後見えてくると、更にドキリとした。
紗幕の向こうにはせんがわ劇場の通常時の観客席の段床があって、今回わざわざ平台を組んで(通常時の)舞台側につくられた仮設の階段状の客席と、対象形になっている。この2つの段々に挟まれた谷底に舞台があって、声は、山の斜面のこだまのように増幅されて響いているのだ。更には後半、この幕や側面の布も取り払われ舞台側が徐々に裸になっていくと、段床は舞台の一部にも一応なるが、ハケた役者が腰を下ろして舞台を見守ったりもする。
そこに至ってようやく、彼らの「劇場内にテントを立てる」という行為が、荒唐無稽で無邪気なチャレンジにみえて、実に周到であることに気が付いた。劇場とテントが「入れ子」になることを「構造」として意識した上で、舞台と客席を反転させる配置で組む。楽しげでちょっと猥雑な感じがして、一体感をギュッと生みだすテントは、しかし最後に舞台側をほとんど解体する為に建てられている。
無論、テント芝居のラストシーン、舞台の背面がバッと開くこと自体はある種の定番である。けれども今回、舞台が街に、境内や河原にダイナミックに接続・拡張する大スペクタクルはない。代わりに、グレーのちょっと地味な、素のままの劇場の段床と、静かに座る役者陣に向かい合うのだ。この時、観客は鏡のようにこちら側に座る自分達を意識する。テントの薄い幕は、「窓」どころか雨戸を全部するすると開け放つようになくなっていき、「内側の時間」をごく穏やかに、何なら冷静に開いていく。
持ち込まれた太陽光発電のモバイルバッテリーも(野外であれば必須かもしれないが)なぜ劇場に?とつい最初は笑ってしまった。けれども、外側の劇場とインフラ的にすらいったん切断するほど徹底して「内側」だけのフィクションの世界を、松本から「輸送」して創り出す。同時に、白塗りのスタッフ陣と舞台上に据えられた操作卓、充電の残りを「今、何%?」と繰り返し確認することで、この瞬間まさに光と音で電力を使いながら演出されている芝居であることも意識させる。何重にもアンビバレンツな装置なのだ。
そうだ、そもそも冒頭、前田さんの日本語をボギーさんが英語にするやりとりもそうだった。「ここはテント劇場です」という言葉だけは、何度言っても「This is my room.」と訳し、「世界は嘘にまみれている」は、前田さんを指さして「He is a liar!」と変換していたではないか。
フィクションが前提の劇場内の、更にテントの内側で、言葉ひとつでスケールも時間も自在に飛び越えながらも、ずっと通奏低音のように「これは虚構、でもある」と言い続ける。玉葱の皮の雨は脚立から降り注ぎ、水底の光は紐で引っ張られて揺れて、全ての装置はあっけらかんと舞台の上にある。底抜けに熱く明るいようでいてどこか客観的で、底の方にはフツフツとした怒りも感じ、ストレートにみえて、幾重もの相反するレイヤーでできている。
しかしこれはいったい、どんな風にラスト締めるのかしらと思って観ていたら、全員で楽器を奏で歌い、しかも千秋楽には、その最後の最後にモバイルバッテリーが切れて観客のスマホのライトで照らされる、というまさに「劇的」な終わり方であった。
けれども、「まだ始まっていない」と言っていた前説と同じように、観客が役者陣からビールを差し出され、舞台の上でも客席でもフラットに話す、毎ステージ後の「打上げ」までが、きっと彼らの芝居なのかもしれない。
それにしても。このちょっとややこしい「入れ子」からスタートさせた彼らの「テント芝居」、次回、本来の「屋外」に戻ってどうなっていくのか、やっぱり全然想像がつかなくて、とっても楽しみである。
(2024.7.27公開)
山岸 綾(一級建築士事務所サイクル・アーキテクツ代表/中部大学准教授)
建築家、アートのある光景をつくるアートスケープ・アーキテクト。
原広司+アトリエ・ファイ建築研究所を経て、2006年サイクル・アーキテクツ設立。大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレで「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」「奴奈川キャンパス」、奥能登国際芸術祭で「スズ・シアター・ミュージアム」「日置美術館公民館」等、拠点施設の設計を行う。あいちトリエンナーレ/国際芸術祭あいちでは、2013より継続して岡崎、豊橋、豊田、常滑の各会場を担当、こうした経験から芸術祭とその空間の研究を行う。パフォーミング・アーツの方は一観客ながら、劇場の内と外の空間に興味がある。